Q: これまでの経歴を簡単に教えてください。
ダンサーを目指し、2001年に渡米しました。レコード会社でのアルバイトを経て、名門ビジネススクールの1つであるニューヨーク市立大学バルーク校に入学。専攻は会計学でした。大学3年時から大手監査法人KPMGのニューヨークオフィスでのインターンを始め、大学卒業後に同社へ入社しました。2012年に日本へ帰国し、ピーナッツの栽培・加工・販売までを手がける「杉山ナッツ」を始めました。
Q: 様々な経歴をお持ちですが、ダンサーから会計を勉強しようと思ったきっかけは何だったのですか?
生計のためにブルックリンのレコード店でアルバイトを始めたことが大きなきっかけです。渡米したての頃は、ダンスのレッスンと語学スクールに行くという生活でした。 当時はニューヨークで経験を積み、世界中でパフォーマンスをする夢がありました。
クイーンズのジャマイカというところにレコード店の本社があり、そちらでのアルバイトの誘いを受けました。ジャマイカのカリブ音楽の大きなレーベルがあり、CDを出したり、アーティストがいたりするようなところでした。
本社では数字を扱う仕事が多かったです。どこのラジオでどのくらいの曲を流して、それに関してどのくらいのお金が入ってくるのかなどを計算していました。 数字については、高校まで出ているのである程度はできるんですよ。 周りのスタッフから仕事を褒められるようになり、大学に行くことを勧められました。
アルバイトを通じて、世の中のお金の流れに興味を持ちました。数字を扱うなら、会計学を勉強するべきだと思ったんです。そしてニューヨーク市立大学バルーク校に入学しました。
Q:ダンサーから大学に行くという方向転換をする背景には、どんな心の変化がありましたか?
オフブロードウェイのミュージカルやコマーシャルでダンスの仕事をしながらも、ダンスをやっていくことに対して疑問を持っていましたね。ニューヨークには競争相手が多いのです。自分が勝ち残れる自信がなく、モヤモヤとした感情を抱いていました。
そんな時に大学進学を勧められたことが転機となりました。大学に行ってもダンスはできるので、挑戦してみようかなと思いました。
Q: ニューヨークでの大学生活はどんなものでしたか。
フルタイムで大学に行くかたわら、2年時までレコード会社でアルバイト、3年時からはKPMGの税務ポジションでのインターン、そしてニューヨーク日本人学生会(NYJSA)の会長をしていました。寝る時間もないくらい、忙しい日々を送っていましたが、大学での会計の勉強はとても楽しかったです。
その後、幸運なことに僕は就労ビザの抽選に当たりました。大学卒業後、KPMGでインターンからフルタイムの社員になりました。 仕事の内容は大きくは変わりませんでしたが、より難しい税務の仕事に関わるようになったんです。
Q: 他の監査法人への就職や、日本に帰ることは選択肢にありましたか?
就職先を選ぶ時に、他の監査法人へ行くことも考えていました。社会全体のお金の流れと法律と照らし合わせて、数字を導き出す税務の仕事の面白さ。そして会社の柔軟な勤務形態が、僕をKPMGで引き続き頑張ろうと思わせてくれたのかもしれません。
柔軟な勤務形態を取り入れている会社でした。 自分が任された仕事を期限と予算内に終わらせる必要はありますが、勤務時間は自由。やる気さえあれば、なんでもチャレンジさせてくれる社風も僕に合っていました。
日本に帰ることは考えておらず、ニューヨークで経験を積みたいと思っていたんです。リーマンショックでたくさんの会社が破産したり、企業買収に遭ったりしていました。ある意味、一番面白い時に入社できたと思うんです。このような歴史的な現状を近くで見ながら働ける経験は貴重でしたね。
その後の仕事は順調で、昇進も何度かありました。そして日本に帰るタイミングの時にマネージャーにならないかというお話もいただいていました。
Q: 会計士からピーナッツに出会うまでの過程で、どのような心境の変化がありましたか?
順調に昇進し、仕事はうまくいっていましたが、「ずっとこのままでいいのかな」と自分の将来をうまく描けないことがよくありました。
ニューヨークにいた時の僕は、KPMGで働いていることが自分の価値でした。そこに違和感を感じていたんですよね。どこに行ってもすごいねと言われましたが、KPMGがすごいだけの話です。
それに加え、目の前にある仕事を懸命にこなすだけで人生が終わってしまうことに恐怖を感じていましたね。そして会計の仕事はいずれコンピューターが担い、人間の仕事ではなくなることで、自分の存在価値も将来的には薄くなるのだろうという不安がありました。
Q: そんなときにピーナッツに出会ったんでしょうか?
そうです。ウォールストリートジャーナル(WSJ)にてピーナッツに関する記事を見つけました。タイトルは”What Is Your Favorite Peanut Butter?” みたいな感じだったと思います。
1904年のセントルイス万国博覧会にて、静岡県の遠州落花生が金賞を受賞したことが書いてあったんです。僕の地元一帯、浜名湖の周辺を遠州と言うのです。自分の地元で落花生が作られていた事実とそれが世界で一番になったことに対し、驚きと衝撃がありました。アメリカに住んで12年。自分の地元の名前をアメリカで見ることはなかったものですから、故郷を愛する気持ちが湧き上がってきました。
遠州落花生でピーナッツバターを作ったらどんな味になるんだろうという疑問と好奇心が湧き上がってきました。また会計士として製造業の方々と仕事をする過程で日本のものづくりの凄さを感じていました。日本のものづくりで、ピーナッツバターというアメリカで生まれたものを作りたいと強く思いました。
これがピーナッツを作ろうと思った最初のきっかけです。KPMGにフルタイムで入社してから5年目の時でした。
Q: その決断にあたり、弊社代表の大澤(前職時代)に 相談されたと思いますが、そのときのことで印象に残っていることはありますか?
落花生ビジネスを始めることでとても悩んでいた時に、NYJSAの活動を通じてお世話になっていた大澤さんに相談しました。反対はされなかったですね。「今の会社が嫌なら、他のBIG 4に行く道もあると思うし、でもどうしても今(ピーナッツビジネスを)やりたいのであれば、応援するよ!」と背中を押していただけました。
Q: 遠州落花生に関する記事を読んだ後、どのように行動していきましたか。
仕事を休み、日本へ一時帰国しました。遠州落花生を栽培している人を探しに行きましたが、どこにもいませんでした。 当初は落花生を作っている人がいれば、僕が豆を買い取りして加工しようと考えていました。しかし作っている人がいません。自分で落花生を作るしかないなと思いました。
Q: 当時、遠州落花生を作っている農家の人がいない中でどのようにして豆を手に入れたのですか?
1904年ごろ「遠州落花生協同組合」というものがあり、その組合の当時のメンバーの名前や住所が書いてある文献を見つけました。その文献に書かれている家に全て足を運び、当時の組合長の末裔の方が紹介してくれた家がありました。
そのお宅の空き地は、100年前に落花生を栽培していた土地でした。当時土の中に落ちた種が花を咲かせては落ちることを毎年繰り返しており、遠州落花生が埋まっていました。僕が探し求めていた遠州落花生があったんです。 土地の所有者の方に許可をいただき、僕はお茶缶1缶分(約200g)の豆を拾ってきました。